ピザの不思議は、焼きたての一枚よりも、 最後に残った一切れに表れることがあります。
大きな箱を開けた瞬間、人は少しだけ明るくなります。チーズの香り、トマトソースの酸味、 生地の焼けた匂い。テーブルの真ん中に置かれたピザは、料理であると同時に、合図でもあります。 「さあ、食べよう」「今日は少し楽にしよう」「今夜はみんなで過ごそう」。
けれど、時間が進むにつれて、箱の中はだんだん静かになります。 会話は続いているのに、ピザだけは少しずつ減っていく。 そして最後に、一切れだけが残る。
最後の一切れは、空腹の問題ではなく、関係の問題になる。
誰が食べるのか
最後の一切れを前にすると、人は急に礼儀正しくなります。 本当は食べたいのに、「どうぞ」と言う。相手もまた、「いえいえ」と返す。 そのやり取りは、ほんの数秒のことかもしれません。 しかし、その数秒に、その場の空気がよく出ます。
家族なら、いちばん若い人に譲るかもしれない。 恋人同士なら、半分に切るかもしれない。 友人同士なら、じゃんけんになるかもしれない。 仕事仲間なら、誰かが遠慮して、誰かが冗談で空気をほどくかもしれない。
ピザは、最初から分けることを前提にした料理です。 だから最後の一切れは、単なる残りではありません。 そこには、分け合った時間の余韻があります。
遠慮という味
日本の食卓には、最後の一つをめぐる独特の間があります。 皿に一つだけ残った唐揚げ、箱に一個だけ残った和菓子、鍋の底に沈んだ最後の具。 それを誰が取るのか。誰が譲るのか。誰が笑って終わらせるのか。
ピザの最後の一切れも、それに似ています。 大げさなマナーではありません。 ただ、相手を少し見る。 自分の気持ちを少し引く。 それだけで、食卓はやわらかくなります。
最後の一切れには、チーズやソースとは別の味があります。 それは遠慮の味であり、気づかいの味であり、場を壊さないための小さなやさしさの味です。
半分にするという発明
最後の一切れを半分にする人がいます。 ナイフで切ることもあれば、手で少し不格好に分けることもあります。 きれいな半分にならないことも多い。 片方には耳が多く、片方にはチーズが多い。
それでも、その半分は美しい。 なぜなら、そこには「ひとりで終わらせない」という気持ちがあるからです。 最後の一切れを分けることは、最後の時間を分けることでもあります。
デートの終わりに残った一切れ。 映画を見ながら食べた夜の最後の一切れ。 子どもの誕生日のあと、大人だけが片づけながら食べる一切れ。 どれも、味より先に、場面として記憶に残ります。